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2006/09/03のBlog
柿本朝臣人麻呂、妻死にし後に、泣血(きふけつ)哀慟(あいどう)して作る歌

うつせみと 思ひし時に 取り持ちて 我が二人見し 走出(はしりで)の 堤に立てる 
槻(つき)の木の こちごちの枝(え)の 春の葉の 茂きがごとく 
思へりし 妹(いも)にはあれど 頼めりし 子らにはあれど 
世の中を 背(そむ)きしえねば かぎろひの 燃ゆる荒野に 
白栲の 天領巾(あまひれ)隠り 鳥じもの 朝発(だ)ち行(いま)して 
入日なす 隠りにしかば 我妹子(わぎもこ)が 形見に置ける 
若き児の 乞ひ泣くごとに 取り与(あた)ふる 物しなければ 
男じもの 脇ばさみ持ち 我妹子と 二人我が寝し 
枕付(づ)く 妻屋(つまや)のうちに 昼はも うらさび暮らし 夜はも 息づき明かし 
嘆けども 為(せ)むすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ
大鳥の 羽易(はがひ)の山に 我(あ)が恋ふる 妹はいますと 
人の言へば 岩根さくみて なづみ来し よけくもぞなき 
うつせみと 思ひし妹が 玉かぎる ほのかにだにも 見えなく思へば(2-210)


短歌二首

去年(こぞ)見てし秋の月夜(つくよ)は照らせども相見し妹はいや年離(さか)る(2-211)
--去年見た秋の月は今年も同じように照っているけれども、
その月を一緒に見た妻は、年月とともにますます遠ざかって行く。--

衾道(ふすまぢ)を引手(ひきて)の山に妹を置きて山道を往けば生けりともなし(2-212)
--引手の山に妻を残して独り山道を行けば、生きている心地もしない。--

またまた挽歌です。
前述の「天飛ぶや 軽の路は・・・・・」と「柿本朝臣人麻呂、妻死にし後に、泣血(きふけつ)哀慟(あいどう)して作る歌二首 并せて短歌」としてまとめられている歌。
二人の妻を続けて亡くしたと書いたもう一人の妻の挽歌。。
こちらの歌には子供もいて生活感があり《家の妻》だったことが推測できます。

どうしてこんな事になったのかと言うと
人麻呂はなかなかあえない土形娘子(隠りたる妻)の後を追って
家の妻には何も告げずに持統の紀伊行幸についていきます
--羽易娘子(家の妻)に黙ってでてしまったことを悔いる歌を残しています--。
土形娘子と示し合わせた上での行動だったようです。
ところがそのことが持統にバレ、土形娘子は謹慎を命じられ後日自殺してしまいます。
家で玉梓の使いからそのことを聞かされた人麻呂は、愕然とし放心状態に・・・。
そんな人麻呂に羽易娘子(家の妻)は、

504 君が家にわが住坂の家道(いへぢ)をも吾は忘れじ命死なずば
の歌を人麻呂に残し、
「私の事なんて、もうどうでもいいんでしょう」って感じで家を出て命を絶ちます。。

万葉人っておおらかで、けれどもとっても熱い人たちだったのでしょうね。
何処まで書けるか判りませんが、土形娘子・羽易娘子等との相聞他、戀歌をぼちぼち書いていければ、、、と。。

[ 更新日時:2006/10/19 19:01 ]
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by sylphid-mave | 2008-05-08 20:58 | 柿本人麻呂 | Comments(0)
ドブログから人麻呂ネタを順次転載しています。
季節感がちぐはぐになるかもしれませんがご勘弁を。。
あと、興味の無い方は是非スルーを  ペコリ・・


土形娘子(ひじかたのをとめ)を泊瀬の山に火葬(やきはふ)りし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首

428 隠口(こもりく)の泊瀬の山の山の際(ま)にいさよふ雲は妹にかもあらむ

--戀歌と言いながら挽歌が続きます。。m(_ _)m
--戀する人の挽歌なのでこれも恋歌だと。。
ここで、人麻呂は土形娘子を妹(妻)だとはっきりいっています。
土形娘子は持統の行幸にもほとんどのように随行し、軽皇子にも仕えた女官。
以前にもふれた人麻呂の最初の吉野行幸の際に恋に落ちた(月並みな表現だなぁ)隠りたる妻が土形娘子であることがここでわかりますね。

前記事の泣血哀慟歌の我妹子とこの土形娘子は同一人物だと思います。
十数年相思相愛の中だった土形娘子は何故人目を忍ぶ仲(隠りたる妻)だったのでしょうか。いろんな仮説、憶測があるようです。
土形娘子は軽の宮で草壁皇子、軽皇子に仕える女官でその女官とと密通してしまったから。とか なかには人麻呂は持統の愛人でにもかかわらず不倫してしまった。なんて突飛な話しもあるようです。(--これって凄い話ですよね。天皇が愛人作ってその愛人が天皇の側近と不倫しているわけです。。でも欧州あたりだと似たような話もありそうな・・・・--)

人麻呂の妻は何人いたのか。どうも一人じゃないようですね。
これも多説あるようですが、3人じゃないかなぁと思っています。
そしてこの時期は二人の妻がいたんじゃないかな。
この土形娘子(隠りたる妻)と羽易娘子(家の妻)、二人の妻を同時期に亡くしています、それも二人とも自殺。そしてその原因は人麻呂にある。

この辺のことはまた、追って。。

記事は、主に
 1,秘められた挽歌-柿本人麻呂と高市皇子
 2,無冠の恋歌
 末田 重幸著 講談社
 の2冊を、参考にさせてもらっています。
歌とその歌意については、
 できるだけそのまま写させてもらっています
ただ私の文章については、歌の解釈歴史的背景その他に誤りが多々あるかと思います。
決してお勉強のご参考にはなさらないよう
伏してお願い申し上げます。<(_ _)>
[ 更新日時:2006/09/01 22:12 ]
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by sylphid-mave | 2008-04-30 23:37 | 柿本人麻呂 | Comments(0)
ドブログから人麻呂ネタを順次転載するつもりです。
季節感がちぐはぐになるかもしれませんがご勘弁を。。
あと、興味の無い方は是非スルーを  ペコリ・・


どぶログより転載。
2006/08/31のBlog


人麻呂 妻みまかりし(死)後、泣血哀慟して作る歌
天飛(あまと)ぶや 軽(かる)の道は 我妹子(わぎもこ)が 里にしあれば ねもころに 見まく欲(ほ)しけど や

まず行かば 人目(ひとめ)を多み 数多(まね)く行かば 人知りぬべみ さね葛(かづら) 後(のち)も逢はむと 

大船(おほぶね)の 思ひたのみて 玉かぎる 岩垣淵(いはかきふち)の 隠(こも)りのみ 恋ひつつあるに 渡

る日に 暮れ行くがごと 照る月の 雲隠るごと 沖の藻の 靡(なび)きし妹は 黄葉(もみじば)の 過ぎて去(

い)にきと 玉梓(たまづさ)の 使(つかひ)の言へば 梓弓(あずさゆみ) 音に聞きて 言はむすべ 為(せ)むす

べ知らに 音のみを 聞きてありえねば 我が恋ふる 千重(ちへ)の一重(ひとへ)も 慰(なぐさ)もる心もありや

と 我妹子が やまず出で見し 軽の市に 我が立ち聞けば 玉だすき 畝傍(うねび)の山に 鳴く鳥の 声も聞

こえず 玉鉾(たまほこ)の 道行く人も ひとりだに 似てし行かねば すべをなみ 妹が名呼びて袖ぞ振りつる

。 柿本人麻呂 巻2‐207

短歌二首
208 秋山の黄葉(もみち)を茂み迷いぬる妹を求めむ山道知らずも
209 黄葉(もみちは)の落(ち)り去(い)くなべに玉梓(たまずさ)の使を見ればあひし日念(おも)ほゆ

人麻呂恋歌に最初に接したのはこの泣血哀慟歌でした。
多分高校生位だったろうか。ひょっとしたら中坊の頃かもしれません。。
当時は、歌の背景も、妻とは誰のことなのか、何故死んだのか、なんにも意識しないままただ感動してました。何度も

書いては諳んじて覚えたものでした。 今は、もう空では覚えてませんね。(^^;)

人麻呂の恋歌(この歌自体は挽歌ですが)として代表的な歌だと思います。。

[ 更新日時:2006/08/31 18:41 ]
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by sylphid-mave | 2008-04-28 22:09 | 柿本人麻呂 | Comments(0)
この挽歌は、人麻呂の作品としては、高市皇子の挽歌のつぐ長大なものです。

明日香皇女の挽歌は、人麻呂の挽歌の中でもっとも充実した、豊潤な、挽歌らしい挽歌といえるかも。この挽歌で人麻呂は皇女の夫忍壁皇子に深い同情を寄せています。
実際、柿本人麻呂と明日香夫妻とは親しく交際していたようです。
人麻呂は持統の神経を逆撫でするような献歌を何度も作っています、その度に忍壁皇子の助けを借りたり、明日香皇女に持統に口利きをしてもらったりしたのではと思います。(持統は明日香皇女を朝廷内の調停役として必要としていたようですので、明日香皇女の言葉には貸す耳もあったようです。)
持統自らも認める人麻呂の才能と明日香夫妻の協力がなかったら、持統の怒りに触れ、命さえ落としかねないこと、しばしばあったのではないかと想像します。
ホント、思ったことを後先考えず歌にしてしまう人のようです。人麻呂という人は。おおらかというか、天の邪鬼というか。好きですねぇ、こういう人。
軽皇子立太子後無冠となった柿本人麻呂の久しぶりの挽歌、公的活動としては高市皇子の挽歌以来4年ぶりとなります。
人麻呂の挽歌制作は、明日香皇女の生前の希望もあったようです。人麻呂としても親交の厚かった皇女の挽歌で思い入れも深かったろうと思います。
ただ、挽歌制作を柿本人麻呂に命じた(承認した)持統の真意は別のところにあったようです。

701年6月、持統上皇は吉野に行幸します。そして、上皇にとって久しぶりのそして最後の吉野行きにも人麻呂は随行します。

何故、持統上皇は再び人麻呂を起用したのか。。。。。more
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by sylphid-mave | 2005-10-29 19:02 | 柿本人麻呂 | Comments(1)
万葉集3324に挽歌があります。ただ挽歌としか書かれていませんが、人麻呂の高市皇子への挽歌でしょう。公式の殯宮挽歌は、前述の通り、壬申乱の高市皇子の功績をあげ皇子を讃える歌になっていましたが、この挽歌は高市皇子と公私ともに過ごした人麻呂の想いがいっぱいです。
人麻呂の事績が、「日本書紀」などの公の記録から徹底して消去された背景には、高市皇子急死を巡る疑惑をその挽歌を介して告発するかに見える人麻呂の政治的姿勢があったのかもしれません。
 高市は国見の帰路暗殺されます。そしてその場所に高市皇子の殯宮と常宮がおかれます。 太政大臣高市皇子の自らの墳墓造営は当然進んでいたはず。なのに何故ここに、急ごしらえの永久に鎮まる墓所(常宮)をおいたのか。 持統は高市皇子の墳墓造営を渋々認めたものの、天武が眠り、やがて自分が眠るはずの地に並んで、自分が暗殺したものが眠ることを快く思うはずはありません。で、自らの権力を持って理由をこじつけ、高市皇子を殺害した場所を高市皇子の常宮としたのでしょう。当然その墓は急ごしらえのものとなります。しかし、時の太政大臣高市皇子の墓ですからその装飾・副葬品は当時最高のものだったのではないでしょうか。

その高市皇子の常宮とは。。。。。More
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by sylphid-mave | 2005-10-17 22:34 | 柿本人麻呂 | Comments(0)
持統十年(696年)、
 秋、七月辛丑朔日(ふみつきかのとうしとらのついたち)。日蝕有り。・・・・・・・・庚犬(かのえいぬ)。後皇子尊(のちのみこのみこと)薨(まかり)ぬ。
高市皇子は国見の帰路何者かの手によって暗殺されます。
何者かは、たぶん持統天皇でしょう。 持統は実子草壁皇子のライバル大津皇子を謀殺し、次に孫の軽皇子のライバル高市皇子を暗殺したのです。たぶん謀臣藤原不比等に命じたのでしょう。女帝の執念怖いですねぇ。
この《高市皇子尊の城上の殯宮の時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌 》 は公式の挽歌で人麻呂の挽歌としても大作です。
でも人麻呂の高市皇子への想いを思うと何か形通りのありきたり歌のように思えます。
何故でしょう。やっぱり持統も目にする公の歌ですからねぇ、差し障りのないこういう歌になるんでしょうねぇ。そうはいっても流石人麻呂の代表作。大作です。

では、高市皇子尊殯宮公式挽歌
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by sylphid-mave | 2005-10-15 18:31 | 柿本人麻呂 | Comments(0)
691年9月、河島皇子(天智の子、35歳)が亡くなり、人麻呂は、その妃泊瀬部(はつせべ)の皇女と、同腹の兄忍坂部(おさかべ)皇子(忍壁、天武の子)に挽歌を献じています。
よく読むと、複雑怪奇な人間関係ですね。天智と天武は兄弟。泊瀬部皇女の父は天武。え~と、え~っと。頭を整理しましょうか(^O^)。天智と天武は兄弟だった。で、天智の子の河島皇子の妻が天武の子で忍壁皇子の妹の泊瀬部皇女と言うことは河島皇子と泊瀬部皇女の関係は(;^_^
でも、まぁ。はこんな事が特に不思議ではなかった、とってもおおらかで(いいかげんで)不思議な時代だったようです。
柿本朝臣人麻呂、泊瀬部皇女(はつせべのひめみこ)忍坂部皇子(おさかべのみこ)に献(たてまつ)れる歌一首並びに短歌

飛ぶ鳥の 飛鳥の河の 上つ瀬に 生(お)ふる玉藻は 下つ瀬に 流れ触らばふ 玉藻なす か依りかく依り なびかひし 嬬(つま)の命(みこと)の たたなづく 柔膚(にぎはだ)すらを 剣刀(つるぎたち) 身に副(そ)へねねば ぬばたまの 夜床も荒るらむ そこゆゑに 慰めかねて けだしくも あふやと念(も)ひて 玉だれの 越(おち)の大野の 朝露に 玉藻はひづち 夕霧に 衣はぬれて 草枕 旅宿(たびね)かもする あわぬ君ゆゑ

反歌一首

しきたえの袖易(か)へし君玉だれの越野過ぎゆくまたもあわめやも

普通、挽歌それも皇子の挽歌であればその業績等をたたえて歌にするのでしょうがそのような語句が見あたりません。それどころか「柔膚」とか「夜床も荒るらむ」とか、挽歌にはおよそ似つかわしくない言葉がでてきます。持統はあまり快くは思わなかったでしょう。

河島皇子は朋友大津皇子を裏切り大津の皇子の謀反を朝廷に密告しています。そのため朝廷からはその忠誠を讃えられますが、世間からは冷たい目で見られたことだろうと思います。人麻呂は朝廷への忠誠より朋友大津河島の苦悩の関係の方に心情的に思いが深かったでしょうから単純に忠誠心賛歌の挽歌はつくれなかったのでしょう。人麻呂はその苦悩と皇女との思いのみを歌にしたようです。もしそのような忠誠心賛歌の挽歌がつくられていれば天皇多いに喜び殯宮挽歌として献じられていたでしょう。にもかかわらず人麻呂は自らの立場を悪くするのを承知でこの挽歌を献じたのだと思います。

翌年692年3月の伊勢行幸には相思の女官は随行していますが、人麻呂は京に残っています。
この頃は、相思の女官を随行させ、人麻呂は離ればなれに残されることが多くなっているようです。
それや是やら、持統のわがままなどで人麻呂は天皇への疎外感を深めていきます。
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by sylphid-mave | 2005-10-01 18:47 | 柿本人麻呂 | Comments(0)
688年朝廷歌人として華々しくデビューした柿本人麻呂は、翌年には草壁皇子の挽歌制作を命ぜられる。官を得て7年目、27歳の柿本人麻呂の最初の公的献歌となる日並皇子(ひなみしのみこ)の尊(みこと)の殯宮(あらきのみや)の時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首並びに短歌 
天地(あめつち)の 初の時 ひさかたの 天(あま)の河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひいまして神分(かむはか)り 分(はか)りし時に 天照らす 日女(ひるめ)の命(みこと天(あめ)をば しらしめすと 葦原の 瑞穂の国を天地の 依(よ)り合ひの極(きはみ) 知らしめす 神の命(みこと)と天雲(あまぐも)の 八重(やへ)かき別きて 神(かむ)下し いませまつりし高照らす 日の皇子(みこ)は 飛ぶ鳥の浄(きよみ)の宮に神ながら 太しきまして 天皇(すめろぎ)の 敷きます国と 天(あま)の原 石門(いはと)を開き 神上(かむあが)り 上(あが)りいましぬ わが大王(おほきみ) 皇子の命(みこと)の 天(あめ)の下 知らしめしせば 春花(はるはな)の 貴(たふと)からむと 望月(もちつき)の 満(たた)はしけむと 天の下 四方(よも)の人の 大船の 思ひ憑(たの)みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 念(おも)ほしめせか つれもなき 真弓の岡に 宮柱 太しきまし 御殿(みあらか)を 高知りまして 明言(あさごと)に 御言(みこと)問はさず 日月(ひつき)の 数多く(まねく)なりぬれ そこ故に 皇子の宮人 行方知らずも
  反歌 二首
 ひさかたの天(あめ)みるごとく仰ぎ見し皇子の御門(みかど)の荒れまく惜しも
 あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも

689年四月草壁皇太子(日並皇子)没。皇太后(持統)は頼みとする実子草壁皇太子の早逝によって、父帝天智(中大兄皇子)の遺詔を継ぐという自己の政治目的の達成に挫折する。しかし数ヶ月の空白ののち、皇太后は再び新たな決意を持って行動をおこす。すなわち、皇孫軽皇子立太子を実現する道。690年正月、軽皇子立太子実現のため皇太后自ら即位、持統天皇となる。時に軽皇子八歳、畝傍の東南、軽に宮殿をもち、人麻呂は軽皇子の春宮(みこのみや)大夫の要職につく。
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by sylphid-mave | 2005-09-27 22:40 | 柿本人麻呂 | Comments(0)