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Mañana será otro día

柿本朝臣人麻呂、泊瀬部皇女、忍坂部皇子に献れる歌

691年9月、河島皇子(天智の子、35歳)が亡くなり、人麻呂は、その妃泊瀬部(はつせべ)の皇女と、同腹の兄忍坂部(おさかべ)皇子(忍壁、天武の子)に挽歌を献じています。
よく読むと、複雑怪奇な人間関係ですね。天智と天武は兄弟。泊瀬部皇女の父は天武。え~と、え~っと。頭を整理しましょうか(^O^)。天智と天武は兄弟だった。で、天智の子の河島皇子の妻が天武の子で忍壁皇子の妹の泊瀬部皇女と言うことは河島皇子と泊瀬部皇女の関係は(;^_^
でも、まぁ。はこんな事が特に不思議ではなかった、とってもおおらかで(いいかげんで)不思議な時代だったようです。
柿本朝臣人麻呂、泊瀬部皇女(はつせべのひめみこ)忍坂部皇子(おさかべのみこ)に献(たてまつ)れる歌一首並びに短歌

飛ぶ鳥の 飛鳥の河の 上つ瀬に 生(お)ふる玉藻は 下つ瀬に 流れ触らばふ 玉藻なす か依りかく依り なびかひし 嬬(つま)の命(みこと)の たたなづく 柔膚(にぎはだ)すらを 剣刀(つるぎたち) 身に副(そ)へねねば ぬばたまの 夜床も荒るらむ そこゆゑに 慰めかねて けだしくも あふやと念(も)ひて 玉だれの 越(おち)の大野の 朝露に 玉藻はひづち 夕霧に 衣はぬれて 草枕 旅宿(たびね)かもする あわぬ君ゆゑ

反歌一首

しきたえの袖易(か)へし君玉だれの越野過ぎゆくまたもあわめやも

普通、挽歌それも皇子の挽歌であればその業績等をたたえて歌にするのでしょうがそのような語句が見あたりません。それどころか「柔膚」とか「夜床も荒るらむ」とか、挽歌にはおよそ似つかわしくない言葉がでてきます。持統はあまり快くは思わなかったでしょう。

河島皇子は朋友大津皇子を裏切り大津の皇子の謀反を朝廷に密告しています。そのため朝廷からはその忠誠を讃えられますが、世間からは冷たい目で見られたことだろうと思います。人麻呂は朝廷への忠誠より朋友大津河島の苦悩の関係の方に心情的に思いが深かったでしょうから単純に忠誠心賛歌の挽歌はつくれなかったのでしょう。人麻呂はその苦悩と皇女との思いのみを歌にしたようです。もしそのような忠誠心賛歌の挽歌がつくられていれば天皇多いに喜び殯宮挽歌として献じられていたでしょう。にもかかわらず人麻呂は自らの立場を悪くするのを承知でこの挽歌を献じたのだと思います。

翌年692年3月の伊勢行幸には相思の女官は随行していますが、人麻呂は京に残っています。
この頃は、相思の女官を随行させ、人麻呂は離ればなれに残されることが多くなっているようです。
それや是やら、持統のわがままなどで人麻呂は天皇への疎外感を深めていきます。
by sylphid-mave | 2005-10-01 18:47 | 柿本人麻呂

by かぁ